「ユーザーを幸せにするのか」への違和感の正体

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先日、Twitterで「起業家はそのサービスはユーザーを本当に幸せにするのかということを考えた方が良い」というような呟きに、多くのLikeやリツイートがついていたことに、少し違和感を感じました。

私が感じた違和感は、「サービスは人を幸せにするためにある」という本来であれば当たり前であるはずの視点が、まるでなにか新しいもののように語られていて、さらにそれに共感する人も多かったことにあります。

 

サービスに対して「それは人を幸せにするのか」や「最大価値を提供しているか」というような根源的な視点が、最近になって改めて語り直される場面が増えているのはなぜでしょうか。

 

多くの起業家は、生活をもっと便利にしたり、世の中の課題を解決したり、「誰かを少し幸せにすること」を目指してサービスの開発を決意すると思います。

 

「サービスで〇〇がもっとよくなる」と信じ言い切れる情熱の強さが熱狂を呼び人を巻き込んでいくもので、仮に個人的なお金や名声といったものをモチベーションにサービスを開発したとしても、多くの場合そのサービスは長く続かないかスケールしないまま独りよがりなものになるでしょう。

 

一方で「人の幸せよりも欲求にフォーカスしたサービス」というのは昔から存在していました。例えば高利の消費者金融。
サービス提供者は「お金が欲しい」という人の欲求を一瞬で満たすことができますが、途方もない返済義務を背負った人生へ導くことになります。

 

このように考えてみると「本来ないはずのものを仮想的にある状態にする」サービスはどうしても「幸せ」よりも「欲求」への刺激にベクトルが向きがちなのではないか、というような気もしてきます。

 

最近になって「それはユーザーを幸せにするのか」という視点が語り直されているのは、よりお金が自由に行き来できるような社会になり「ない」ものも「ある」状態にできる世界になっているからかもしれません。

 

行われがちな議論として「フィンテックは貧しい人たちを食い物にしたビジネスだ」というものがあったりしますが、私はフィンテックサービスの提供者が「貧しい人たちの欲求を刺激して搾取しよう」といった動機でサービスを開発しているとは全く思えません。

 

むしろ、そのようなサービスは運営者にとってのリスクは高いはずです。
通常は与信に通らないような人たちに対してお金を貸すこともあるわけなので、人間への信用がベースにないと行えないビジネスです。

 

きっとお金が自由化していくことで、自分の努力などではどうしようもないような固定化された環境から抜け出せたり、新しい世界を見るチャンスを得られる人が増えるのだろうなと、私は思います。

 

一方で、お金が一瞬で手に入るという体験は、人を滅ぼす可能性があるということも、また事実でしょう。

 

だからサービス提供者は考え続けなければいけないし「幸せ」という尺度であるべき姿を捉えなおし続ける必要があるのかもしれません。

 

「そのサービスは人を幸せにするのか」という問いは、決してもともと抜け落ちていたような視点ではなく、幸せと危うい快楽が表裏一体な時代だからこそ、繰り返し問い直されるべき視点かもしれないな、なんてことを思ったりしました。

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